口伝書き起こし

地方に伝わる御伽噺に関する研究ではありません。

創作 / 演奏のこれからの発展のために必要なもの

ここ最近、仲間との話を通じて、これからの芸術音楽の発展のために3つ必要だと思ったものがある。

・力を持った、作家が主体となった批評誌
・楽曲の演奏解釈という評価軸を排したコンクール
・より芸術的な視点による作曲コンクール

これら3つについてそれぞれ述べようと思う。

 

作家が主体となった批評誌

現状、現代音楽において批評は力を持っていない。SNSの台頭によりアカデミーの一本軸のみではなくなってきているとはいえ、評価の視点というのは未だに偏っている(個人的にはSNSの方が歪だと思う)。エクリチュールの出来不出来、フォロワーや再生数の多さというのは分かりやすい指標になり得るかもしれないが、それのみを目印とするのは思考放棄だ。とても芸術家の姿勢として褒められたものではないだろう(もちろんエクリチュールもきちんとできた方が良いだろうし、正しいやり方であればフォロワーも多い方が良いだろう)。

批評が力をもつことで、これらの問題はある程度解消できる。しかし、評論が力を持っていた昔は昔で問題があった。悪意のある批評を書けば印象を操作できてしまうし、作家が萎縮する原因にもなる。そのために方向性の異なる複数の作家が主体になるのが良いだろう。性善説が前提なのは危険だと思うかもしれない。シェーンベルクはそれが嫌だというのもあって私的演奏協会を作ったわけだが、個人的には人間の善性を推している。

 

演奏解釈を重視しないコンクール

まず前提として、演奏解釈というのはクラシックにおいても現代音楽においても非常に大切なものだと思う。だからこそなのだが、現状の複雑な現代曲をやった後にすぐモーツァルト……といったコンクールは好ましくない。少しくらいは総合的なものもあっていいとは思うが、大半のものは棲み分けをするべきではないかと思う。演奏解釈という軸を排除することで、純粋な技術のために集中する演奏家も現れ出すことだろうが、難しい曲を吹ける人が増えること自体は良いことだ。演奏解釈がどこにあるのかということへの理解にも繋がるだろう。

 

芸術的視点による作曲コンクール

これまでの2つと同じようなことなのだが、エクリチュールを大切にするからこそ、それによる視点を重要視しないコンクールが必要だと思う。現状の作曲コンクールというのは評価が曖昧である。アカデミーが取りこぼした作家性・新規性が豊かな作家はたくさんいるはずだ。芸術音楽が芸術的に育つために、芸術性が豊かな作家を見つける。そのためのコンクールというのは、エクリチュールを重視するような従来のコンクールにとっても評価軸をはっきりとさせるという役割を持てるはずだ。こちらももちろん複合的なものがあってもいいと思う。

 

 

私はまだ若輩者であり、下2つは金銭的にも経歴的にも厳しい事情があり提言しかできないが、批評誌については批評をすること自体がそれが興る助けになる。私自身も力になれたらと思う。