口伝書き起こし

地方に伝わる御伽噺に関する研究ではありません。

『上伊那ぼたん、酔へる姿は百合の花』の衒学性についての所感

『上伊那ぼたん、酔へる姿は百合の花』を観て、まず目につくのは、女性たちの生活空間に置かれた本のラインナップである。文学、美術、思想、映画、音楽(あとお酒)に関する固有名が、会話のなかに、あるいは部屋の本棚に、かなり自然に――ときにやや過剰に――流れ込んでくる。だが核心は知識の量ではなく、その置かれ方にある。アニメ版では、原作に出てくる書籍が、よく似たタイトルの別物に変えられ、その擬似的な書名に女性の筆者名が与えられている。実在の書名をそのまま映すことが難しかったとしても、単に架空名へ置き換えるだけなら、著者名まで女性化する必要はない。

そしてこの操作には、ひとつの含みがある。女性たちの知を画面に置く方法はいくつもあったはずだ。たとえば実在の女性著者を想起させることも、完全な架空書名にすることもできた。ところがここで選ばれているのは、男性著者の書物を思わせるタイトルを作り、その署名を女性へと書き替える方法である。しかもそれは文系にかぎらず、理系の書籍にまで同じ向きで及ぶ。実在する女性の著作を映すのではなく、男性の手による知の体系を選び、その作者性を女性へと移し替えている。映すことを避けて、書き替えている。

ここを入り口にしたい。この作品には「衒学的だ」という感想が出やすく、それ自体は分からなくもない。だがその違和感を「作者の知識のひけらかし」として片づけてしまえば、いまの置き換えがもつ意味はまるごと抜け落ちる。

ひとつ前提を確かめておく。知識を過剰に語る女性、専門的な固有名を会話に持ち込む女性は、現実に存在している。それは男性的な教養主義の模倣とはかぎらない。女性同士のコミュニティ、レズビアン/クィアな場、アカデミックな環境では、知識は親密さの媒体にもなれば、防衛の形式にもなる。そうした人物像を「衒学的」の一語で切り捨てる態度は、その女性像の可能性を最初から視界の外へ置く。とはいえ、知識をもつ女性がつねに解放的であるわけでもない。知識は権力としても働くし、クィアな主体が知的マッチョイズムを身につけることもある。問われるべきは、知識が解放か抑圧かではなく、それがどう関係を作り、どう距離を作り、どう自己演出や防衛として働くか、である。

固有名の導入が技巧として成功しているかどうかは、別の論点だ。会話に無理なく溶けているか、情報が詰まりすぎていないか――これは作劇の出来であって、男性キャラクターでもBLでも等しく問われる。だが、かりにそれが完璧であってもなお「衒学的」という違和感が残るとすれば、その残余こそが問題の核心になる。

教養をひけらかす男性キャラクターは、同じふるまいをしても、たいてい「作者の衒学」ではなく「キャラクターの知性」「人物の魅力」として受け取られる。蘊蓄を垂れる探偵も、思想家の名を引く「渋い」男も、その知的な身振りは人物の属性に帰せられる。ところが女性が話者になると、同じ固有名の連なりが作者の地へと振り分けられる。衒学性そのものではなく、衒学性の帰属先が、はじめから傾いている。

この傾きは、百合の受容のねじれと地続きである。男性中心的な受容環境では、女性同士の親密さに惹かれながら、それをどこか管理可能で鑑賞可能で無害なものとして扱おうとする力が働く。そこには女性同士の共同性への不信も混じる。女性たちが知識をもち、専門書を読み、語り合う(あとお酒を飲む)こと――それが、鑑賞者のまなざしを当てにしない自足した営みとして現れるとき、「衒学的だ」という違和感が立つ。BLとの差もここに出る。少なくともBLの受容においては、登場人物の知識や職業が、関係を動かす素材として積極的に解釈される場面が多いのに対し、百合では女性キャラクターの知的なふるまいが「作り物らしさ」へ回収されやすい。これはジャンルの差というより、女性キャラクターに許される知性の幅の差である。

念のため断っておくと、これは原作者が何を読んでいたか、制作者が何を狙ったかという内心の問題ではない。アニメ化という改変の場で、現にこうした置き方がなされている、という事実の問題である。原作の書名をそのまま使わず、似せた別物に変え、そこに女性の筆者名を与える――その操作は、誰の内心であれ、女性たちの空間に女性の手による知の系譜を据えるという効果を生む。観客のほとんどが立ち止まって読みもしない背景の本にまで、分野をまたいで同じ手が入っている。誰に見せるためでもない場所でのこの律儀さこそ、それが思いつきの演出ではなく設計であることを物語る。

この作品を衒学的だと感じること自体は、否定しない。だがその衒学性は、作者の知識のひけらかしというより、女性たちが知識をもち、語り、ときに距離を取り、ときに親しくなるための形式として現れている。それが居心地悪く受け取られてしまうとしても、その居心地悪さをただちに作品の失敗へ帰すことはできない。女性キャラクターに知性を、それも作者の代弁ではなく彼女自身のものとして許すことに、こちらの受容がまだ慣れていないからである。背景の本へのこの書き替えは、その慣れなさに抗弁するものではない。慣れなさなど存在しないかのように、女性の名のもとにある知を、当然の前提として空間に据えているのである。

比較行為の運動論──方法空間・履歴・停止をめぐって

ジャンル一般を比較する理論はあるのか

出発点は、ジャンル一般を比較するための理論があるのかというところだった。たとえば「音楽ジャンル一般」と「美術ジャンル一般」。このくらいなら、記号学の延長でどうにかなりそうな気もするし、よく知らないけれど、先行事例もありそうである。「モダンジャズ」と「ロココ」?まだなんとかなりそう。しかし、もっとランダムに選ばれたものならどうか。着物、群論、地質学、炒め物……。なお、今回この疑問は解決されない。

比較○○学や構造○○学は?

比較文学、比較宗教学。構造言語学、構造人類学。すでに「比較」や「構造」を冠する学問、方法は存在している。

比較に対する比較、構造に対する構造分析は成り立つか?

通常の比較は、対象Aと対象Bを比較する。構造主義的方法もまた、対象そのものよりも、対象間の関係・差異・変換を前景化する。

では、比較行為そのものを比較することはできるのか。比較Aと比較Bを対象にして、さらに比較Cを行うことはできるのではないか。構造についても同様に、構造分析Aと構造分析Bのあいだに、さらに構造分析が成り立つのではないか。

より具体的な例としては、

  • 比較文学における比較
  • 比較宗教学における比較
  • 比較音楽学における比較
  • 比較社会学における比較

これらの比較自体も、比較することができる。そして、その比較を、さらに上位のメタレベルから比較できる。構造主義的分析も同様だが、構造主義はもともとそのような自己反省的な運動をある程度射程に置いているので、「構造主義的分析が、何を構造として認定しているのか」「構造化の手続きそのものにどのような構造があるのか」が重要になってくるかもしれない。ここには今回は深く立ち入らない。

今回扱うのは、再帰的運動がどのようにはたらき、どう記述でき、どう拡張されるかということである。これらの仮称として、「比較比較学」「構造構造学」を置いておく。

少し脱線するが、比較から構造へという流れは、比較を非人称化する運動として捉えることができる。よくある批判としては、その抽出が人間の手で行われる以上、人称的なものからは逃れられないというものだ。しかし、非人称化へ向かう働きがあること自体は認められるだろう。

再帰的運動をどう記述するか

次に問題は、運動の記述に移る。比較を比較し、その比較をさらに比較できる。構造を構造分析し、その構造分析をさらに構造分析できる。では、この再帰的運動はどう記述できるのか。

ここで、分析を静的なものではなく、状態空間上の運動として捉える方向を考えた。

State = <O, L, M, A, R, H, K, G>
対象 O (Object)
水準 L (Level)
方法 M (Method)
分析軸 A (Axis)
結果 R (Result)
履歴 H (History)
遷移核 K (Kernel)
結果分類粒度 G (Granularity)

を持つ状態を考える。分析は、その状態から別の状態へ移動する運動として記述される。

複数の方法論を用いて分析する

比較比較の運動と、構造構造の運動、つまり方法 M は、混ぜることが可能である。たとえば、比較→構造……という二つの操作の繰り返しや、より複雑に、比較→構造→比較→比較→構造→比較→構造のような長いループを持つものも考えられる。

これは、構造主義的分析の結果あるいは過程を、比較諸学的に読むこと、またはその逆を含むものである。メタレベル間でこれが切り替わるなら、メタレベルが上がっていく中で、分析方法や結果のリズムが表れてくるということだ。

履歴 H によって、運動が対象化される

次に、その運動そのものを対象にする。ここでいう「運動を対象にする」とは、これまでの分析の履歴 H、すなわち分析の軌跡を、後続の分析対象として扱うことである。

たとえば、同じ対象に対して複数の方法集合 M や遷移核 K を用いれば、複数の履歴 H₁, H₂, H₃ が得られる。すると、今度はそれらの履歴どうしを比較できる。

H₁ では構造分析が中心化されたが、H₂ では制度分析が中心化された。
H₁ では早く停止したが、H₂ では比較不能性が蓄積した。
H₁ と H₂ には同じ方法論的リズムがある。

このように、分析の対象は、もとの対象 O だけではなく、分析の進み方そのものへ拡張される。

ただし、H は分析運動そのものを完全に保存するわけではない。何を履歴として記録するか、何を重要な変化と見なすか、何を信号とし、何を雑音とするかには、分析者の判断が残る。したがって、H は運動の完全な写像ではなく、運動を後から分析可能にするための記録形式であるといえる。

方法論的リズム

ここで仮に「方法論的リズム」という言葉を置いておく。

比較、構造分析、制度分析、現象学的記述、記号論的読解などが、どの順番で現れ、どの程度反復され、どこで逸脱し、どこで停止するか。これらを一つの運動として見たとき、そこにはある種のリズムがある。

たとえば、単純なものなら、

比較 → 構造 → 比較 → 構造

のような反復がある。より複雑には、

比較 → 構造 → 制度 → 比較 → 現象学的記述 → 構造

のような軌道も考えられる。

ここで重要なのは、分析方法が単に並んでいるのではなく、ある結果が次の方法を呼び出すということである。比較によって強い類似が見えたなら、構造分析へ進みたくなる。比較不能性が出たなら、制度分析や歴史分析へ進みたくなる。過剰に抽象化されたなら、現象学的記述へ戻りたくなる。

つまり、分析結果 R は終点ではなく、次の分析を呼び出す契機になる。

方法論的リズムの結晶化

方法論的リズムが、複数の履歴 H のあいだで安定して表れることがある。たとえば、異なる対象や異なる初期条件で分析を走らせても、比較→構造分析→制度分析→比較、のような遷移が繰り返し現れる場合である。

このとき、そのリズムは単なる一回的な軌道ではなく、方法空間 M の内部にある安定した配置として見えてくる。比喩的に言えば、方法論的リズムが結晶化し、方法論的結晶構造が表れた状態である。

ただし、この結晶構造は、対象そのものに含まれていた構造だとは限らない。M にどの方法を含めたか、K にどの遷移を強く設定したか、G によって何を同じ結果として数えたかによって、同じようなリズムは容易に生じうる。したがって、ここで現れた結晶構造は、対象由来の signal である可能性もあれば、方法設計に由来する artifact である可能性もある。

ここでいう signal とは、分析対象 O の性質に由来して現れたと考えられるパターンである。反対に artifact とは、対象そのものではなく、方法集合 M、遷移核 K、結果分類 G、あるいは Analyze() の癖によって作られた見かけのパターンである。

たとえば、複数の履歴 H のあいだで、比較→構造分析→制度分析→比較、というリズムが安定して現れたとする。このとき、それは対象群が本当にそのような読みを呼びやすいから現れた signal かもしれない。だが、単に K の設定が「比較の後に構造分析へ進みやすい」ように作られていたために出た artifact かもしれない。

したがって、方法論的リズムや結晶構造が見えたとしても、それをすぐに対象の構造と見なすことはできない。それが対象由来の signal なのか、方法設計由来の artifact なのかを区別する必要がある。

そのためには、同じ K で対象 O を変える、同じ O で K を変える、といった対照が必要になる。対象を変えても構造が変わらないなら、それは K の artifact かもしれない。逆に、K を変えても同じ構造が残るなら、それは対象側に由来する安定した特徴かもしれない。

遷移核 K と結果分類 G

そのためには、結果 R をどう分類するかが必要になる。ここで結果分類粒度 G が問題になる。

たとえば、ある結果を「類似」と見るのか、「対応」と見るのか、「構造」と見るのか、「比較不能性」と見るのかによって、次に選ばれる方法は変わる。

R → G(R) → 次の方法選択

G が粗ければ、多くの結果は同じ分類に入る。そうすると、分析は早く安定したように見える。反対に、G が細かければ、似た結果も別々のものとして扱われる。そうすると、分析はなかなか閉じない。

ここでようやく、遷移核 K が必要になる。K は、ある状態から次にどの方法へ移るかを決める規則である。

K: State_n → State_{n+1}

より具体的には、現在の状態や直前の結果分類に応じて、次の方法を選ぶ規則である。

類似が強い → 構造分析へ
比較不能性が出る → 制度分析へ
過剰抽象化が出る → 現象学的記述へ
同じ構造が反復する → メタ分析へ

K は中立ではない。比較のあとに構造分析へ進みやすく設定すれば、比較は構造へ変換されやすくなる。比較不能性のあとに制度分析へ進みやすく設定すれば、比較不能性は失敗ではなく、制度的条件を問う契機になる。

この意味で、K は方法空間上の重力場のようなものである。どの方法が中心になり、どの方法が補助的になり、どの方法がどの方法を呼びやすいかを決める。

ランダム性は何をしているのか

ここにランダム性を導入すると、分析は固定された手順ではなくなる。

ただし、ここでいうランダム性は、何でもよいという意味ではない。あらかじめ定義された方法集合 M、分析軸集合 A、結果分類 G、遷移核 K の内部で、次の手を確率的に選ぶということである。

K(State_n) = P(next method | State_n)

つまり、K が確率分布を与え、その分布に従って次の方法が選ばれる。

このランダム性は、分析者を消すものではない。むしろ、分析者の判断は、あらかじめ M や K や G の設計に入っている。何を方法として認めるか。どの方法へ進みやすくするか。何を同じ結果として数えるか。これらはすべて、事前の設計に含まれている。

したがって、ランダム性は客観性の保証ではない。むしろ、観察者の判断を確率分布として符号化する装置である。

それでもランダム性には意味がある。分析者が自然には選ばないような接続を発生させるからである。

比較のあとには構造分析へ進みたくなる。しかし、ランダム性によって、比較のあとに現象学的記述へ進むこともある。構造分析のあとに脱構築へ進むこともある。制度分析のあとに形式分析へ戻ることもある。

この意味で、ランダム性は異化装置であるといえる。通常なら選ばれにくい方法の組み合わせを発生させ、分析運動を予定調和からずらす。

どこで止めるのか

ここまで来ると、最後に停止の問題が出る。

分析は、原理的にはいくらでも続けられる。対象を分析し、その結果を分析し、その履歴を分析し、その履歴分析の方法を分析し、その停止条件をさらに分析できる。

したがって、分析は自動的には止まらない。

止めるためには、停止条件が必要になる。たとえば、

- 一定回数に達したら止める
- 同じ構造が何度か出たら止める
- 新しい結果が出なくなったら止める
- 比較不能性が一定数以上出たら止める
- 対象記述・方法記述・運動記述が揃ったら止める

のような条件である。

しかし、これらの停止条件もまた、完全な根拠ではない。なぜその回数で止めるのか。なぜそれを「同じ構造」と見るのか。なぜ新しい結果が出なくなったと判断するのか。なぜそこで十分だと判断するのか。こうした問いはさらに立てられる。

したがって、停止は内在的な完結というより、観察者による切断である。

ここで重要なのは、切断を隠さないことだと思う。分析が自然に完結したかのように見せるのではなく、「ここで切った」と記録する。

HaltRecord =
<
  停止条件,
  停止理由,
  停止時の状態,
  残された可能性
>

特に、残された可能性を記録することが重要である。停止とは、可能性が尽きたことではなく、まだ進める可能性があるにもかかわらず、そこで切ることだからである。

Analyze() とは何か

ここまで、分析を状態空間上の運動として書いてきた。しかし、実際にはいちばん重要な部分がまだ残っている。それが Analyze() である。

たとえば、状態を

State = <O, L, M, A, R, H, K, G>

と書いたとしても、その状態から実際に何かを読む操作が必要になる。

R = Analyze(O, L, M, A, H, G)

ここで Analyze() は、対象 O を、ある水準 L、ある方法 M、ある分析軸 A によって読み、結果 R を出す操作である。

ただし、これは普通の意味での関数ではない。少なくとも、現在のところ完全に形式化された関数ではない。なぜなら、同じ O、L、M、A、H、G が与えられても、何を重要と見なすか、どの差異を拾うか、どの類似を有意味と見るかは、分析者の判断に依存するからである。

たとえば、モダンジャズと着物を「型と変奏」という軸から読むことはできる。しかし、その読みが妥当か、どこまで細かく見るか、どの点で止めるかは、自動的には決まらない。着物の季節性を拾うのか、身体技法を拾うのか、装飾の規則性を拾うのかによって、結果は変わる。同じように、モダンジャズについても、コード進行を見るのか、即興の慣習を見るのか、演奏制度を見るのかによって、まったく違う読みになる。

したがって、Analyze() は、形式化されたプロトコルの内部に残る、いわば読解のブラックボックスである。

もちろん、これは何でもよいという意味ではない。Analyze() は、M や A や G によって制約されている。方法 M が比較であれば、比較として読まなければならない。分析軸 A が反復であれば、反復に関わるものを見なければならない。結果分類 G が粗ければ、結果は粗く分類される。

しかし、それでもなお、実際に何を「読む」のかは完全には機械化されない。

その意味で、Analyze() は、このプロトコルにおける最も人称的な部分である。M、K、G、Halt はある程度記述できる。けれども、Analyze() の内部には、分析者の判断、連想、知識、偏り、読解の癖が残る。

このプロトコルができるのは、Analyze() を消すことではない。むしろ、Analyze() がどこに残っているのかを見えるようにすることである。

観察者はどこに残るのか

ここまでで、分析はかなり形式化されたように見える。

対象 O、レベル L、方法 M、分析軸 A、結果 R、履歴 H、遷移核 K、結果分類粒度 G。さらに、ランダム性と停止条件を加えることで、分析運動は状態空間上の軌道として記述できる。

しかし、それでも観察者は消えない。

観察者は、少なくとも三つの場所に残る。

第一に、Analyze() の内部である。対象を実際にどう読むか、どの特徴を重要と見なすか、どの差異を拾うか、どの類似を意味のあるものと見なすかは、完全には形式化されない。

第二に、M、K、G の設計である。どの方法を認めるか。どの方法へ進みやすくするか。何を同じ結果と見なすか。これらはすべて、観察者の判断を含む。

第三に、停止である。どこで十分と見なすか。どこで切るか。これはプロトコル内部から完全には出てこない。

つまり、このプロトコルは、観察者を消すものではない。むしろ、観察者がどこに残るのかを見えるようにするためのものだと考えたほうがよさそうである。

とりあえずの結論

比較を比較する。構造分析を構造分析する。複数の方法を混ぜる。その運動を履歴として記録する。履歴どうしを比較する。方法の出現頻度や遷移順序を見る。ランダム性によって、普通なら選ばなさそうな方法の接続を発生させる。そして最後に、どこで止めるかを記録する。

こう考えると、「比較比較学」や「構造構造学」という言い方は、何か新しい学問名というより、分析運動そのものを一度対象にしてみるための仮称である。

このノートでやったことは、まだ理論の構築というほどではない。記述のための部品を並べてみた、くらいである。ただ、少なくとも次のことは言えそうである。

比較は、対象どうしの関係を読むだけではない。比較の方法、比較の履歴、比較の遷移、比較の停止もまた、比較の対象になりうる。

そして、構造化とは、比較を非人称化する方向に進む運動として見ることができる。ただし、その非人称化は完全ではない。方法を選ぶこと、結果を分類すること、実際に読むこと、どこで止めるかを決めることには、どうしても観察者が残る。面白いところは、これが構造主義における問題点と一致することであると感じる。

つまり、このプロトコルは、観察者を排除する装置ではありえない。むしろ、観察者を消そうとしたときに、どこから戻ってくるのかを露わにする。

なお、ジャンル一般を比較する理論が本当にあるのか、という最初の疑問は、まだ解決していない。