先行記事:
『きみが死ぬまで恋をしたい』に登場する「ハル」は、身体的には女性だが、男性らしい服装をし、髪型もショートカットにしているキャラクターである。シーナはハルを男子生徒だと思っており、ミミは女子生徒だと認識している(話の流れは先行記事を参照されたい)。
これは、近年のクィアを扱った物語においてある程度類型化された流れであるように思われる。一般化すると以下のような流れとして捉えることができる。
- 登場人物Aは、自身の性別やアイデンティティについて、周囲の認識との齟齬を抱えている。また、その全部または一部を他者に明示していない。
- 純粋さ、率直さ、社会的偏見の少なさを特徴とする登場人物Bが、Aの外見、振る舞い、周囲からの扱われ方などの間にある不一致を、率直な疑問として指摘する。
- Aはその指摘に多少の戸惑いや反感を示すが、Bには侮辱や差別の意図がないことを理解する。
- BはAに対し、「何もおかしくない」「そのままでよい」といった形で、Aのあり方そのものを肯定する。
- Aは、その言葉によって、自分の存在あるいはアイデンティティを認められたと感じ、一定の救済を得る。
- そして、その承認は社会的・政治的な理念としてではなく、B個人の純粋さ、優しさ、偏見のなさといった人格的資質に帰属させられる。
大抵は、登場人物Bは主人公ではなく、第三者やAが主人公となる。『きみ死ぬ』においては、登場人物Aがハル、登場人物Bがミミである。
もちろん、性別違和やトランスジェンダーを扱う作品がすべて同じ構造を採るわけではない。しかし、少なくとも「他者からの承認」を肯定的な転回点として描く作品には、このようなパターンが多く見られる。
この形式で特徴的なのは、差別する主体が必ずしも必要とされないことである。古典的なマイノリティ表象では、差別する社会や人物が提示され、それに対抗してアイデンティティの尊厳が認識される、という構造が比較的わかりやすかった。それに対し、ここで問題にしている形式では、明示的な差別者は登場しなくてもよい。Aはすでに何らかの不安や自己隠蔽を抱えており、そこにBという「偏見を持たずに人を見ることのできる人物」が現れる。それだけで承認のドラマは成立する。
ただし、この作品の場合にはもう一つ重要な点がある。ハルとミミの会話そのものが物語の中心なのではなく、シーナがその一部を目撃していることである。シーナはミミがハルに向けるまなざしを第三者として見る。
したがって、このエピソードには二重の機能がある。一つは、ハルという人物がミミによって承認されること。もう一つは、その承認を通して、ミミが他者をどのように見る人物なのかがシーナに提示されることである。そして、作品全体において重要なのは、むしろ後者のほうである。
この場面でシーナが見ているのは、ハルの在り方そのもの以上に、ハルを見るミミの姿である。ミミは、ハルの服装や振る舞いと身体的な性別とのずれを、それ自体として奇異なものとは見ない。そこには、周囲の常識や規範をいったん経由してから相手を理解する、という過程がほとんどない。
シーナにとって、これはミミについてすでに知っていることの再確認でもある。ミミは以前から、学校や戦争や死について、周囲の人間が当然の前提としているものを共有していない。良くも悪くも、社会的な了解を一段飛び越えて、目の前の人間や出来事を見る。その性質が、ハルとの会話では性別という問題を通してあらためて示される。
しかし、この場面は単なる再確認には留まらない。ここで新しく示されるのは、ミミ自身の感情の変化である。ハルに対するミミの態度だけを見れば、彼女はこれまでと変わらず、他人を偏見なく見る人物である。しかし、シーナとハルが親しくすることについては、ミミは明らかに穏やかではない。シーナからすれば、目の前にいるのは「社会を飛び越えて」他者を見ることのできる、いつものミミである。一方で、そのミミはすでに、シーナを他の誰かとは違う存在として扱いはじめている(そしてミミがそれを自覚しはじめる)。そこには、シーナがそれまで理解していたミミ像だけでは説明できない、独占欲や嫉妬が生まれている。ハルは、この二つを同時に表面化させるための人物として置かれている。
そう考えると、このエピソードにおけるクィア表象は、ハル自身の物語として完結しているわけではない。むしろ、ハルを介してミミの性格を再確認し、そのすぐそばで、そこからはみ出す感情を描くことによって、シーナとミミの関係を一段進める役割を担っている。この点で、このシーンは一つの出来事を介して複数の感情変化を同時に描いており、かなり巧妙である。
したがって、ここで問題にしたいのは、この場面の出来が悪いということではない。むしろ、そこで用いられている「偏見のない人物による無条件の承認」という形式自体が、現在ではかなり定型化しているように見えるにもかかわらず、なお「進歩的な表象」として強い効力を持ち続けていることである。
もっとも、これが実際にどの程度反復されているのかについては、印象論だけで済ませるべきではない。類似する作品をいくつか並べ、どこまで同じ構造が確認できるかは、別途検討する必要がある。
まとめると、問題となるのは、こうした表象が存在することではなく、それが依然として、それだけで作品の進歩性や倫理性を担保する表現として扱われやすいことのほうである。ある表現が社会的に必要であることと、創作上新鮮であることとは別の問題であるし、正しい表象であることと、優れた表現であることも同義ではない。
加えて、この場面にはごく小規模ながら、アウティングの問題も含まれている。シーナはすでにハルの性別について薄々勘づいているとはいえ、ミミはハル自身が明示していなかったことを、本人の同意を確認することなく他者のいる場で口にしている。もちろん、作中ではそのことによってハルが傷つけられるわけではない。むしろ反対に、ミミには侮辱する意図も、性別についての偏見もなく、その言葉によってハルは救われる。
ミミが偏見を持たない人物であることと、本人が隠していることを他者の前で明らかにしてよいことは、本来別の問題である。しかし、この場面では前者によって後者までが遡及的に許されている。ミミが「純粋」であること、そして結果としてハルが救われたことによって、その越境自体はほとんど問題として扱われない。
これは、この種の承認表象が抱える問題をよく示しているように思う。「偏見なく相手を見ること」が非常に強い善として置かれるために、その善意がどこまで相手の領域に踏み込んでよいのかという別の倫理的問題が見えにくくなる。社会的な規範を飛び越えるミミのまなざしは、シーナとの関係においては作品の重要な魅力である一方、その同じ性質が、他者の自己決定まで飛び越えてしまう可能性を持っている。
クィアな人物が描かれること自体が特別な意味を持つ段階から、その人物がどのように描かれ、物語の中で何を担わされているのかが問われる段階へ、すでに創作の側は進んでいるのではないかと思う。少なくとも、承認そのものを物語上の到達点とする形式については、その承認が誰によって、どのような権限で与えられ、何を代償として成立しているのかまでを意図して設計する必要があるだろう。