口伝書き起こし

地方に伝わる御伽噺に関する研究ではありません。

『きみが死ぬまで恋をしたい』におけるマイノリティの承認表象批判

先行記事:

belvedia.hatenablog.com

 

『きみが死ぬまで恋をしたい』に登場する「ハル」は、身体的には女性だが、男性らしい服装をし、髪型もショートカットにしているキャラクターである。シーナはハルを男子生徒だと思っており、ミミは女子生徒だと認識している(話の流れは先行記事を参照されたい)。

これは、近年のクィアを扱った物語においてある程度類型化された流れであるように思われる。一般化すると以下のような流れとして捉えることができる。

  1. 登場人物Aは、自身の性別やアイデンティティについて、周囲の認識との齟齬を抱えている。また、その全部または一部を他者に明示していない。
  2. 純粋さ、率直さ、社会的偏見の少なさを特徴とする登場人物Bが、Aの外見、振る舞い、周囲からの扱われ方などの間にある不一致を、率直な疑問として指摘する。
  3. Aはその指摘に多少の戸惑いや反感を示すが、Bには侮辱や差別の意図がないことを理解する。
  4. BはAに対し、「何もおかしくない」「そのままでよい」といった形で、Aのあり方そのものを肯定する。
  5. Aは、その言葉によって、自分の存在あるいはアイデンティティを認められたと感じ、一定の救済を得る。
  6. そして、その承認は社会的・政治的な理念としてではなく、B個人の純粋さ、優しさ、偏見のなさといった人格的資質に帰属させられる。

大抵は、登場人物Bは主人公ではなく、第三者やAが主人公となる。『きみ死ぬ』においては、登場人物Aがハル、登場人物Bがミミである。

もちろん、性別違和やトランスジェンダーを扱う作品がすべて同じ構造を採るわけではない。しかし、少なくとも「他者からの承認」を肯定的な転回点として描く作品には、このようなパターンが多く見られる。

この形式で特徴的なのは、差別する主体が必ずしも必要とされないことである。古典的なマイノリティ表象では、差別する社会や人物が提示され、それに対抗してアイデンティティの尊厳が認識される、という構造が比較的わかりやすかった。それに対し、ここで問題にしている形式では、明示的な差別者は登場しなくてもよい。Aはすでに何らかの不安や自己隠蔽を抱えており、そこにBという「偏見を持たずに人を見ることのできる人物」が現れる。それだけで承認のドラマは成立する。

ただし、この作品の場合にはもう一つ重要な点がある。ハルとミミの会話そのものが物語の中心なのではなく、シーナがその一部を目撃していることである。シーナはミミがハルに向けるまなざしを第三者として見る。

したがって、このエピソードには二重の機能がある。一つは、ハルという人物がミミによって承認されること。もう一つは、その承認を通して、ミミが他者をどのように見る人物なのかがシーナに提示されることである。そして、作品全体において重要なのは、むしろ後者のほうである。

この場面でシーナが見ているのは、ハルの在り方そのもの以上に、ハルを見るミミの姿である。ミミは、ハルの服装や振る舞いと身体的な性別とのずれを、それ自体として奇異なものとは見ない。そこには、周囲の常識や規範をいったん経由してから相手を理解する、という過程がほとんどない。

シーナにとって、これはミミについてすでに知っていることの再確認でもある。ミミは以前から、学校や戦争や死について、周囲の人間が当然の前提としているものを共有していない。良くも悪くも、社会的な了解を一段飛び越えて、目の前の人間や出来事を見る。その性質が、ハルとの会話では性別という問題を通してあらためて示される。

しかし、この場面は単なる再確認には留まらない。ここで新しく示されるのは、ミミ自身の感情の変化である。ハルに対するミミの態度だけを見れば、彼女はこれまでと変わらず、他人を偏見なく見る人物である。しかし、シーナとハルが親しくすることについては、ミミは明らかに穏やかではない。シーナからすれば、目の前にいるのは「社会を飛び越えて」他者を見ることのできる、いつものミミである。一方で、そのミミはすでに、シーナを他の誰かとは違う存在として扱いはじめている(そしてミミがそれを自覚しはじめる)。そこには、シーナがそれまで理解していたミミ像だけでは説明できない、独占欲や嫉妬が生まれている。ハルは、この二つを同時に表面化させるための人物として置かれている。

そう考えると、このエピソードにおけるクィア表象は、ハル自身の物語として完結しているわけではない。むしろ、ハルを介してミミの性格を再確認し、そのすぐそばで、そこからはみ出す感情を描くことによって、シーナとミミの関係を一段進める役割を担っている。この点で、このシーンは一つの出来事を介して複数の感情変化を同時に描いており、かなり巧妙である。

したがって、ここで問題にしたいのは、この場面の出来が悪いということではない。むしろ、そこで用いられている「偏見のない人物による無条件の承認」という形式自体が、現在ではかなり定型化しているように見えるにもかかわらず、なお「進歩的な表象」として強い効力を持ち続けていることである。

もっとも、これが実際にどの程度反復されているのかについては、印象論だけで済ませるべきではない。類似する作品をいくつか並べ、どこまで同じ構造が確認できるかは、別途検討する必要がある。

まとめると、問題となるのは、こうした表象が存在することではなく、それが依然として、それだけで作品の進歩性や倫理性を担保する表現として扱われやすいことのほうである。ある表現が社会的に必要であることと、創作上新鮮であることとは別の問題であるし、正しい表象であることと、優れた表現であることも同義ではない。

加えて、この場面にはごく小規模ながら、アウティングの問題も含まれている。シーナはすでにハルの性別について薄々勘づいているとはいえ、ミミはハル自身が明示していなかったことを、本人の同意を確認することなく他者のいる場で口にしている。もちろん、作中ではそのことによってハルが傷つけられるわけではない。むしろ反対に、ミミには侮辱する意図も、性別についての偏見もなく、その言葉によってハルは救われる。

ミミが偏見を持たない人物であることと、本人が隠していることを他者の前で明らかにしてよいことは、本来別の問題である。しかし、この場面では前者によって後者までが遡及的に許されている。ミミが「純粋」であること、そして結果としてハルが救われたことによって、その越境自体はほとんど問題として扱われない。

これは、この種の承認表象が抱える問題をよく示しているように思う。「偏見なく相手を見ること」が非常に強い善として置かれるために、その善意がどこまで相手の領域に踏み込んでよいのかという別の倫理的問題が見えにくくなる。社会的な規範を飛び越えるミミのまなざしは、シーナとの関係においては作品の重要な魅力である一方、その同じ性質が、他者の自己決定まで飛び越えてしまう可能性を持っている。

クィアな人物が描かれること自体が特別な意味を持つ段階から、その人物がどのように描かれ、物語の中で何を担わされているのかが問われる段階へ、すでに創作の側は進んでいるのではないかと思う。少なくとも、承認そのものを物語上の到達点とする形式については、その承認が誰によって、どのような権限で与えられ、何を代償として成立しているのかまでを意図して設計する必要があるだろう。

ワルプルギスの廻天の考察(オタクじゃないよ!)

ワルプルギスの廻天が何を下敷きにしているのかが分かった……

 

フランス語の問題

まどマギ本編、および『叛逆』においては、基本的に画面に映るのはドイツ語である。ところが、『廻天』において、名塚底根に向かう途中、背景にフランス語が映る(たしかl'oceanがなんちゃら。さやかに関連させるだけならデンマーク語になるはず)。そして何よりも、作中を通した重要人物である「マルグリート Marguerite」は、ドイツ語「マルガレート Margarete」のフランス語圏での綴り・読みである。これは明確に、ゲーテの『Faust』以上に、フランス語圏における、『Faust』に関連する何かしらが『廻天』において引かれていることを示している。

ここで、フランス語圏における『Faust』に関連するメジャーな作品を挙げておく。

  • ネルヴァル訳 ゲーテ『Faust』
  • カレ『Faust et Marguerite』
  • ベルリオーズ《La Damnation de Faust》
  • グノー《Faust》

これらのうち、翻案を含む三作品それぞれについて、『廻天』に登場する要素との対応を検討する。

カレ『Faust et Marguerite』

1850年初演の幻想劇。題名からしてMargueriteをFaustと並ぶ中心人物に置いており、グノー《Faust》の直接的な素材となった作品である。実際、グノー版の人物配置や基本的な劇構造のかなりの部分がここから引き継がれている。

  • Marguerite:◎
  • ワルプルギスの夜:×
  • Margueriteの牢獄からの救出:×
  • Margueriteの天上的救済:×
  • 過去の忘却:×
  • 歴史上の女性たち:×

したがって、Margueriteという名前や、彼女を物語の中心に置くことについては有力な先行例だが、『廻天』で重要な「ワルプルギス」と「Margueriteの救済」が結びつく構造までは説明できない。

ベルリオーズ《La Damnation de Faust》

1846年初演。ベルリオーズ自身とアルミール・ガンドニエールによるフランス語作品で、ネルヴァル版ゲーテから強い影響を受けている。

  • Marguerite:◎
  • ワルプルギスの夜:×
  • Margueriteの救出:△
  • Margueriteの天上的救済:◎
  • 過去の忘却:×
  • 歴史上の女性たち:×

Margueriteは投獄されており、MéphistophélèsはFaustに「彼女を救う」ことを餌として魂を要求する。しかしFaustはMargueriteの牢獄へ救出に行くことはなく、そのまま地獄へ連れて行かれる。一方、エピローグではMargueriteだけが天へ迎えられる。Margueriteの救済という対応関係は非常に強いが、ベルリオーズはゲーテ第一部からワルプルギスの夜そのものを削除している。

グノー《Faust》

とくに現在一般的な、1869年 パリ・オペラ座改訂版を見る。

  • Marguerite:◎
  • ワルプルギスの夜:◎
  • Marguerite救出:◎
  • Margueriteの天上的救済:◎
  • 過去の忘却:◎
  • 歴史上の女性たち:◎

単に全部入っていることだけが重要なのではなく、これらが一続きになっている。第五幕では、

Walpurgisnacht→古代の女王・娼婦たち→Faustに「過去を忘れさせる」宴→Margueriteの幻影→忘却の中断→Margueriteの牢獄へ→Faustによる救出の試み→Margueriteがそれを拒絶→Sauvée(天上的救済)

となる。さらに台本には、MéphistophélèsがFaustへ杯を差し出して、「過去の忘却」を得よと明示する箇所がある。その場には、古代の女王と高級娼婦が集まり、Cléopâtre、Hélèneが名指しされる(これがセルマ・丁香と対応するかは一考の余地あり)。

『Faust』における登場人物との対応とその変奏

グノーの《Faust》が重要な参照元だとしたうえで、まどマギ本編に対してしばしば行われてきた、最も単純な対応づけとしての、

  • Faust - ほむら
  • Mephistopheles - キュゥべえ
  • Marguerite(ゲーテでは Margarete / Gretchen) - まどか

という関係を確認する。

TV版本編

まず本編に限れば、この三者の対応はかなり素直に成立する。

ほむらは、まどかとの出会いをやり直すためにキュゥべえと契約し、時間遡行を繰り返す。FaustがMéphistophélèsとの契約によって人間に許された通常の限界を越えようとするのに対し、ほむらもまた契約によって時間の不可逆性を破り、ただ一人の少女を求めて同じ時間を反復し続ける。とりわけグノー版では、ゲーテ原作に比べてFaustの哲学的・知的探求よりもMargueriteへの欲望が前景化しているため、「まどかを取り戻す」という一点にほとんどすべてを賭けるほむらとの対応はより明瞭になる。

キュゥべえは、願いを叶える代わりに契約を要求するという点で、Méphistophélèsの位置にある。ただし、両者は同一ではない。Méphistophélèsが明確な悪魔としてFaustを誘惑するのに対して、キュゥべえは自らを悪として認識しておらず、魔法少女の犠牲を宇宙全体のエネルギー収支によって正当化する。『まどマギ』では、悪魔という人格によって担われていた「契約と破滅」の機能が、非人格的なシステムへと置き換えられている。

そして最も露骨なのが、まどかとMargarete / Gretchenの対応である。第10話で示されるまどかの魔女名は「Kriemhild Gretchen」であり、Gretchenの名がそのまま組み込まれている。

ただし、本編最終話ですでに原作からの大きな反転が起こる。『Faust』においてMargarete / Margueriteは最終的に救われる側にいる。それに対してまどかは、「すべての魔女を、生まれる前に消し去りたい」と願うことで、自分自身がすべての魔法少女を救済する原理(円環の理)になる。

すなわちTV版の時点で、「救われるGretchen→他のすべてのGretchenを救うGretchen」という反転が起こっている。

『叛逆の物語』

比較的単純だった対応関係は、『叛逆』で大きく崩れる。

ほむらは依然としてまどかを求める者であり、その意味ではFaustの位置にいる。しかし終盤、円環の理として現れたまどかから「鹿目まどか」という人間としての部分を引き離し、世界そのものを書き換える。そして自らを、神に対する存在として「悪魔」と位置づける。ここでほむらは、キュゥべえの役割の一部を奪い、Faustであると同時にMéphistophélèsの位置へも移動する。

『ワルプルギスの廻天』

そして『廻天』では、この対応関係がさらに複雑になる。

第一に、ほむらは依然としてFaustでありMéphistophélèsでもある。まどかを失いたくないという欲望を持ち続けながら、自ら作り替えた世界を支配する「悪魔」として振る舞っている。

第二に、まどかも依然としてGretchen / Margueriteの位置にいる。彼女はかつて救済される少女の位置から「すべての魔法少女を救う者」へ転じた存在であり、『叛逆』によってその記憶を奪われている。グノー第5幕では、Méphistophélèsはワルプルギスの夜の宴によってFaustに「過去の忘却」を与えようとする。『叛逆』以降の世界では、この機能もまたほむらが引き受ける。まどかは自分が円環の理であったことを失い、人間の鹿目まどかとして日常を送る。

ところが『廻天』では、そのまどかとは別に、文字通り「Marguerite」という名を持つ存在が登場する。ここで、それまで一人の人物に対応していた役割が分裂することになる。Gretchen - まどかと、Marguerite - マルグリートは、語源的には同じ人物を指す名前でありながら、『廻天』の内部では別々の存在として現れる。

しかもマルグリートはワルプルギスの夜の核となる存在であり、魔女になった魔法少女たちに「魔女としての名」を与えるという独自の救済(=名塚底根)を構築していた。これは「円環の理」とは似ているようで異なるものである。つまり『廻天』では、Margueriteの役割そのものが二つに分かれる。

  • まどか - 魔女化という結末を歴史から消去するMarguerite
  • マルグリート - 魔女となった少女の存在と名を残すMarguerite

ここまで来ると、従来の三者の対応はもはや維持することができなくなる。

《Faust》の展開との対応

前述したように、従来ほぼドイツ語によって示されてきた『Faust』的なモチーフの中へフランス語が入り込み、さらにGretchen / Margareteと同一の名に由来する「Marguerite」が、まどかとは別の人物として登場する。

つまり『廻天』では、単にゲーテ『Faust』のモチーフが継続しているのではなく、ゲーテから距離を取ったフランス語圏での『Faust』の変奏そのものが、新たな参照対象として加わっているように見える。

そこで重要になるのが、グノー《Faust》である。ゲーテでは、ワルプルギスの夜はFaustとGretchenの悲劇の中に置かれながらも、それ自体は魔女、精霊、風刺的人物たちが錯綜する巨大なカーニヴァルとして展開する。Faustはその最中にGretchenを思わせる幻影を見るものの、ワルプルギスの夜からGretchenの救出へ直ちに移行するわけではない。

これに対してグノーは、ワルプルギスの夜を大幅に再構成する。そこで中心になるのは、FaustにMargueriteを忘れさせようとするMéphistophélèsと、その忘却を破って再び現れるMargueriteである。ワルプルギスの夜、過去の忘却、歴史上の女性たち、Margueriteの幻影、彼女の救出、そして最終的な救済が、一続きの劇的展開として結びつけられる。この「再構成の仕方」こそが、『廻天』との対応において重要である。

『廻天』でもまた、ワルプルギスの夜とMargueriteは別々のモチーフではない。ワルプルギスの夜の核となる存在そのものがMargueriteであり、さらに彼女が構築した名塚底根は、過去の魔法少女たち、魔女としての名前、記憶、そして救済を結びつける場所として描かれる。

したがって、ワルプルギスの夜→Marguerite→過去の女性たち→記憶 / 忘却→救済という一連の要素が同じ物語構造の中に集約されるという点で、『廻天』はゲーテよりもグノー《Faust》に接近しているといえる。

まとめ

以上から、『ワルプルギスの廻天』が単にゲーテ『Faust』を引き続き参照しているだけではなく、そのフランス語圏における翻案、とりわけグノー《Faust》を重要な下敷きとしている可能性はかなり高いように思う。もちろん、Margueriteという名前だけでグノーを特定することはできない。ネルヴァル訳でもMargarete / GretchenはMargueriteとなり、カレやベルリオーズにもMargueriteは登場する。しかし、「ワルプルギスの夜」「Marguerite」「過去の忘却」「過去の女性たち」「Margueriteの救出」「Margueriteの救済」という要素が一続きの物語として集約されているという点では、グノー《Faust》、とりわけその第五幕が際立っている。そして『廻天』もまた、ワルプルギスの夜とMargueriteを直接結びつけ、その先に過去の魔法少女たち、名前、記憶、忘却、救済という問題を配置している。この一致は、個々の固有名詞の引用以上に、グノーがゲーテをどのように再構成したかという「翻案の構造」そのものとの対応として見る方が自然である。

このことは、TV版から続いてきた『Faust』との関係にも一つの変化を与える。TV版では、Faust=ほむら、Mephistopheles=キュゥべえ、Gretchen=まどかという比較的単純な対応が成立していた。しかし、まどかが「救われるGretchen」から「すべてのGretchenを救う存在」へ転じ、『叛逆』ではFaustであったほむら自身が悪魔=Mephistophelesの機能を獲得する。そして『廻天』では、ついにGretchen=まどかとは別に、同じ名のフランス語形であるMargueriteが一人の人物として現れる。

したがって、『まどか☆マギカ』における『Faust』の引用は、登場人物を一対一に対応させるものとして考えるだけでは足りない。シリーズが進むにつれて、Faust、Mephistopheles、Gretchen / Margueriteの持っていた機能そのものが分解され、反転し、別の人物へと移動している。そのうえで『廻天』が参照するのが、ゲーテの『Faust』のみでなく、すでに一度それをフランス語圏で読み替え、Margueriteとその救済を中心へ据え直したグノー《Faust》なのだとすれば、これはかなり示唆的である。

『上伊那ぼたん、酔へる姿は百合の花』の衒学性についての所感

『上伊那ぼたん、酔へる姿は百合の花』を観て、まず目につくのは、女性たちの生活空間に置かれた本のラインナップである。文学、美術、思想、映画、音楽(あとお酒)に関する固有名が、会話のなかに、あるいは部屋の本棚に、かなり自然に――ときにやや過剰に――流れ込んでくる。だが核心は知識の量ではなく、その置かれ方にある。アニメ版では、原作に出てくる書籍が、よく似たタイトルの別物に変えられ、その擬似的な書名に女性の筆者名が与えられている。実在の書名をそのまま映すことが難しかったとしても、単に架空名へ置き換えるだけなら、著者名まで女性化する必要はない。

そしてこの操作には、ひとつの含みがある。女性たちの知を画面に置く方法はいくつもあったはずだ。たとえば実在の女性著者を想起させることも、完全な架空書名にすることもできた。ところがここで選ばれているのは、男性著者の書物を思わせるタイトルを作り、その署名を女性へと書き替える方法である。しかもそれは文系にかぎらず、理系の書籍にまで同じ向きで及ぶ。実在する女性の著作を映すのではなく、男性の手による知の体系を選び、その作者性を女性へと移し替えている。映すことを避けて、書き替えている。

ここを入り口にしたい。この作品には「衒学的だ」という感想が出やすく、それ自体は分からなくもない。だがその違和感を「作者の知識のひけらかし」として片づけてしまえば、いまの置き換えがもつ意味はまるごと抜け落ちる。

ひとつ前提を確かめておく。知識を過剰に語る女性、専門的な固有名を会話に持ち込む女性は、現実に存在している。それは男性的な教養主義の模倣とはかぎらない。女性同士のコミュニティ、レズビアン/クィアな場、アカデミックな環境では、知識は親密さの媒体にもなれば、防衛の形式にもなる。そうした人物像を「衒学的」の一語で切り捨てる態度は、その女性像の可能性を最初から視界の外へ置く。とはいえ、知識をもつ女性がつねに解放的であるわけでもない。知識は権力としても働くし、クィアな主体が知的マッチョイズムを身につけることもある。問われるべきは、知識が解放か抑圧かではなく、それがどう関係を作り、どう距離を作り、どう自己演出や防衛として働くか、である。

固有名の導入が技巧として成功しているかどうかは、別の論点だ。会話に無理なく溶けているか、情報が詰まりすぎていないか――これは作劇の出来であって、男性キャラクターでもBLでも等しく問われる。だが、かりにそれが完璧であってもなお「衒学的」という違和感が残るとすれば、その残余こそが問題の核心になる。

教養をひけらかす男性キャラクターは、同じふるまいをしても、たいてい「作者の衒学」ではなく「キャラクターの知性」「人物の魅力」として受け取られる。蘊蓄を垂れる探偵も、思想家の名を引く「渋い」男も、その知的な身振りは人物の属性に帰せられる。ところが女性が話者になると、同じ固有名の連なりが作者の地へと振り分けられる。衒学性そのものではなく、衒学性の帰属先が、はじめから傾いている。

この傾きは、百合の受容のねじれと地続きである。男性中心的な受容環境では、女性同士の親密さに惹かれながら、それをどこか管理可能で鑑賞可能で無害なものとして扱おうとする力が働く。そこには女性同士の共同性への不信も混じる。女性たちが知識をもち、専門書を読み、語り合う(あとお酒を飲む)こと――それが、鑑賞者のまなざしを当てにしない自足した営みとして現れるとき、「衒学的だ」という違和感が立つ。BLとの差もここに出る。少なくともBLの受容においては、登場人物の知識や職業が、関係を動かす素材として積極的に解釈される場面が多いのに対し、百合では女性キャラクターの知的なふるまいが「作り物らしさ」へ回収されやすい。これはジャンルの差というより、女性キャラクターに許される知性の幅の差である。

念のため断っておくと、これは原作者が何を読んでいたか、制作者が何を狙ったかという内心の問題ではない。アニメ化という改変の場で、現にこうした置き方がなされている、という事実の問題である。原作の書名をそのまま使わず、似せた別物に変え、そこに女性の筆者名を与える――その操作は、誰の内心であれ、女性たちの空間に女性の手による知の系譜を据えるという効果を生む。観客のほとんどが立ち止まって読みもしない背景の本にまで、分野をまたいで同じ手が入っている。誰に見せるためでもない場所でのこの律儀さこそ、それが思いつきの演出ではなく設計であることを物語る。

この作品を衒学的だと感じること自体は、否定しない。だがその衒学性は、作者の知識のひけらかしというより、女性たちが知識をもち、語り、ときに距離を取り、ときに親しくなるための形式として現れている。それが居心地悪く受け取られてしまうとしても、その居心地悪さをただちに作品の失敗へ帰すことはできない。女性キャラクターに知性を、それも作者の代弁ではなく彼女自身のものとして許すことに、こちらの受容がまだ慣れていないからである。背景の本へのこの書き替えは、その慣れなさに抗弁するものではない。慣れなさなど存在しないかのように、女性の名のもとにある知を、当然の前提として空間に据えているのである。